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戦中戦後の感染症(結核、ダニ、シラミ、DDT)の実情

戦後、大陸から引き上げたとき、舞鶴港で船内に閉じ込められ思わぬ長逗留を強いられたとのことでした。当時、流行った発疹チフスは、不衛生な地域で衣服や頭髪に付くシラミやダニが媒介(リケッチア)したことで有名です。世界史的には1812年のナポレオンのロシア遠征、第一次世界大戦のロシアやナチス・ドイツのユダヤ人強制収容所における感染と高致死率で知られています。読者の中に、DDTを全身に散布されたのを覚えている方もおられるでしょう。
結核の感染も脅威で、今のがん以上の恐ろしい病気と思われていました。その水際作戦を実施したことは、むしろ賢かったと思われますが、混乱中とはいえその手際の悪さは引揚者に大きな労苦を強いたことになりました。当時の感染症の背景について少し詳しく触れてみましょう。

西洋医療

軍配戦中戦後の感染症

結核

結核

結核は戦中、戦後の最大の感染症でした。結核対策は公的な須磨浦病院(1889(明治22)年)の建設を始めとし、戦後にかけてその数を増やしました。しかし結核が治る病気に変わると今度は急激にその数を減らし、125年を経て最後の国立療養所も2013(平成25)年に閉院しました。
1931(昭和6)年の満州事変の頃から結核対策は強化されましたが、そのきっかけは軍隊(陸軍)で発生した結核でした。その除役軍人を含む患者の受入先として、1935(昭和10)年に日本結核予防協会が村松晴嵐荘(茨城県)を開所し、日本初の国立結核療養所となりました 。世界大戦で飢餓にも達する状況の下では、結核対策などは 『絵にかいた餅』といわれました。占領下の連合国総司令部(GHQ)は、結核対策としてBCG接種や健康診断を実施しました。また外科療法や化学療法が普及・発展しました。1964(昭和39)年に発表された WHO(世界保健機関)結核専門委員会第8回報告では、療養所治療の必要性が無いことで中止を求め、X線検査による集団検診を否定し、喀痰塗抹検査を重視するといった方針も示されました。国療も統廃合や一般病院への転換など生き残りをかけた組織改革が進められました。そして今や、結核による感染はマイナーな病因となりました(※)。

※青木 純一:専修大学社会科学年報第50号、日本における結核療養所の歴史と時期区分に関する考察

DDTがシラミ、ノミ、ダニなどの駆虫剤として広範に散布された

≫女子児童にDDT散布開始(1949年03月08日 毎日新聞)

発疹チフス

発疹チフスリケッチア(Rickettsia prowazekii)であるチフス病原体は、コロモジラミの消化管内で増え、糞に混じって排泄される。また感染したシラミは感染後2週間で死亡するが、シラミが吸血した痕を掻いた際、糞やシラミの死骸などに混じった発疹チフスリケッチアが、その刺し口から侵入して感染し、発疹チフスを引き起こす。また人が密集したところでは、糞や死骸に混じったリケッチアを吸い込むことによって経気道感染することもある。人が大集団で狭いところに住み、不潔な状態になるとシラミは大発生しやすい。そのため、欧米において過去に戦争熱、飢饉熱、船舶熱、刑務所熱などと呼ばれたものの多くはたいてい発疹チフスである。戦争はシラミの好む条件を満たしやすく、発疹チフスが戦局を支配し、歴史の転換の契機になることもあった。
原因となるシラミ退治にDDT散布が全国で実施された。DDTは強力な殺虫力があるものの、残留毒性が強いため、日本では71年以降全面的に使用が禁止された。DDTとはdichloro-diphenyl-trichloroethane(ジクロロジフェニルトリクロロエタン)有機塩素系の殺虫剤、農薬で発ガン性環境ホルモンとして現在は使用禁止の農薬です。