中国古代の医学書「傷寒雑病論」
本邦の漢方医学に最も大きな影響を与えているのが中国古代の医学書「傷寒雑病論」です。漢方薬として知られる「葛根湯」「「桂枝湯」「小青竜湯」「小柴胡湯」「大承気湯」などの漢方エキス顆粒の原典です。傷寒とは、現代中国語でチフスのことを示唆します。中医学は西洋医学のように診断名ではなく治療の決定要素は症状と体質であり、とくに診断名は必要としません。敢えて言うならこの書物ができた起因は、当時のインドに発生し、ヨーロッパと中国を同時に襲った数々の「大疫:チフス、インフルエンザ、マラリア」など急性熱性伝染病と考えられます。「雑病」とは、今でいう慢性疾患に相当し、その内容から趣旨をまとめると、以下となります。
1)風邪(ふうじゃ)などの体外から来る熱病の専門書
2)疾病一般の弁証論治(診断して治療する方法)としての総合書
この「傷寒雑病論」の序文に張仲景は次のように記述しています。
「余の一族は、もともと二百人にあまるほどいたが、建安元年(AD.196)から10年もたたないのに、死亡するものがその3分の2に達した。そしてそのうち10分の7は傷寒にかかって死んだのだ。こうして死亡者の続出したこと、年若くして死んでゆく人々を救う手段のなかったことを嘆じ、発奮して「傷寒雑病論」を著した。……」
「傷寒雑病論」を著した張仲景
張仲景、名は機、後漢のころの南陽郡涅(でつ)陽(よう)(河南省鎮平県東北部)の人。文献上は、桓帝の和平元年(150)に生まれ、献帝の建安24年(219)卒。享年はおよそ70歳。その後も中国では伝染病を克服するため新しい生薬が発見されたり、新しい方剤が創られたりしていますが、最近の伝染病対策に関しては、「中医学の最新感染症対策」をご覧ください。
≫漢方医列伝 張仲景(ちょうちゅうけい)
華佗(かだ)AD141~203
中国の歴史書三国志には、邪馬台国時代の日本が描かれている。その当時の中国の英雄である曹操(魏の武帝)は頭痛に悩まされていた。それを1回の鍼治療で全治せしめた華佗は曹操に強く招かれた。しかし応じなかったので、怒りをかい刑死することになった。
手術に際し、「針や薬が届かないものには、酒で麻沸散を飲み下し、酔って感覚がなくなったところで、腹を切開し除去する。疾悪を除去した後に縫合し、神膏(今では華佗膏と呼称)を塗り1ヵ月で回復する」(「三国志名医伝:華佗と仲景」上村義徳 文芸社2011)。
華佗はペルシャ人であったとの説もあり、その地の外科技術を知っていたかもしれない。華佗の前にも後にも中国医学で外科が発展しなかった。なぜなのか、私にとり興味深い謎であり未だその背景が理解できないままである。
「華佗五禽戯(ごきんぎ)」という導引術を創編した。気功などに発展したと思われるがいわゆる現代のラジオ体操法である。
「華佗膏」華佗の膏薬が現代に名称だけが残っている(水虫・いんきん たむし、ぜにたむしに効果あり(安息香酸・サリチル酸配合の軟膏剤)。
「華陀夾脊穴(かだ・きょうせきけつ)」とは、胸椎から腰椎までで、それぞれの棘突起の下、両側に0.5寸(約1センチ)の位置にあり、左右合計17穴」とある。総じて筋肉がこわばるような疾患、下肢も含めた背部の膀胱経上に現れた筋性疾患に適用するツボである。
本邦の華岡青洲(江戸時代1804年)は、麻沸散(通仙散)による全身麻酔下で世界初の乳癌摘出手術に成功した。彼の実施した患者143名のうち、術後生存期間は平均約3年7か月となり驚くべき数値である。
マンダラゲ(チョウセンアサガオ)と烏頭(ウズ=トリカブト)に麻酔剤として最も高い可能性があることを知り、青洲はこれらを中心に処方を研究したらしい。