盆と両親の思い出
盆になると、年とともに迎え方が変わってくる。
年少の頃は親戚中が集まり、ご馳走が楽しみだった。盆と正月が一緒に来るその盆であった。
成人するとふるさとを出た友人たちとの会合の機会となって友情を温めた。
子供を持つと、親の苦労も少しは分かり、孫見せの親孝行と墓参りとなった。
歳をとるとだんだんと先祖への思いが募った。昨今両親のことが思い起こされる。
悲劇の幕開け
20年前90歳で逝去した母は明治の女で、泣き言を言わぬ、気の強い女であった。
16歳で看護婦と助産婦の資格をとり、21歳で医者の父親と一緒になり、産めよ増やせよの時代で3男3女をなした。
五反田、恵比寿で山手医院を開設し、平和な日々を送った。
しかし、戦争が激化すると、恵比寿駅前の医院は類焼の恐れから、取り壊し撤去となった。
学童疎開で、離散した家族を思い、父は戦火のない満州のハルピンに移住し、拓務省(外務省の外郭団体か?)の医者となった。これが悲劇の幕開けである。
五族共和の下、看護婦も日本人、満人、中国人、朝鮮人、ロシア人で構成され、患者も五族で賑わった。
満州平原を跋扈していた馬賊の頭目は、昼間の戦闘で傷ついた部下の治療に、夜になるとお迎えにきた。恐れもせず、嫌がりもせず、父は治療に出向いた。荒野の友人となった。
父の枕元の言葉
終戦を迎えると、外交官宿舎の長男・長女と開拓団宿舎の母と4人の子供、医務従事の父は四散して、散りじりとなっていた。八路軍、ソ連兵、馬賊と入り乱れ、阿鼻叫喚の世界と化していた。
妻子は死んだと聞かされた父は、ロシアに招かれて軍医に迎えられ中尉なった。騎馬で巡回治療に当たった。その後、皆生きていることが判明するとロシア軍を辞し、家族が一堂に集った。21年の4月、馬車仕立てで開拓団宿舎を立ったが、凍結している筈の黒龍江は、雪解けの濁流となり、馬車は渡れず、足止めとなった。
一旦開拓団の村に戻ると夥しい患者の治療に忙殺され、まさに医者の不養生、本人がチフスに感染し、たおれた。私の3歳上の姉もチフスで死んだ。
父の枕元の言葉は、旧制中学の長男と高女の長女の二人に、「生きて帰れるのは多分二人だけと思う。自分は他力本願で生きてきたが、今後、あなた達は自力本願とせよ。生きて日本に帰り、道を開き逞しく生きよ」戦後の大混乱の中で、神も仏も無い世界となっていた。
ハルピンの街中では死人がゴロゴロと転がっていた。
改めて、6月になり、帰国の第一歩が始まった。ハルピンまでの200kmは中野学校の諜報員が父親を偽装して加わり、先導した。彼は捕まれば、リンチにされ、裁判で極刑なる危険があった医者の一行が一番目立たず安全だったのだろう。
屈強な諜報員の働きでハルピンまでの旅は、順調で、このままいければと期待もした。
しかし、ハルピンでは各地から集まった人で溢れ、市内の収容所に収容された。
極寒のハルピンは、着るものもない、食べるものもない最悪の難民キャンプであった。
街中では死者が転がり放置され、惨状を呈していた。肝心の軍人や警察は一番先に帰国していた。
南へ900km
5人の子供を抱えて、無蓋車に乗せられ、満州の平原を南へと逃れた。
線路も随所で破壊されており、次の駅までの道を歩いた。ほとんどがとうもろこしの畑で、野盗や八路軍を警戒し、身を屈めて通り抜けていく。
900kmは想像を絶する距離であり、約5ヶ月もかかり、漸く錦州湾の葫蘆島にたどり着いた。
悲劇が追い討ちをかける
乳飲み子の多くは、殺され、満人に譲られ、日本に帰れたのは半分に満たない。戦争孤児と、残留孤児はこうして生まれた。
葫蘆島から佐世保に帰国船が出る。日本に帰れる。
佐世保の山々の緑が目に入った時、引揚者は自ずから歓声を上げ号泣した。
しかし、ここでも悲劇が追い討ちした。感染者を恐れた日本政府は、感染者を確認する為、船は長期間停泊させられていた。
やっとの思いで辿り着いた日本で、上陸の許可が出ない、余りにも酷な仕打ちであった。帰国者はみな半病人であったと言っても過言ではない。
毎日、発狂して飛び込み自殺をする者が絶えなかった。せめて、上陸させて収容できないものかと叫びあっていた。
自力本願は、我が家の思想の底流
兄弟姉妹の思いは、「我々は棄民、政府は何にもしてくれない」の気持ちを強くした。放置である。自力本願は、我が家の思想の底流となった。
(ペルーや南米の移民は奴隷と同じだったと言われるが、こうした棄民の例は枚挙にいとまない。今の年金だって、100年安心と取るだけ取って、70歳までは自活せよとはまさに現代版棄民政策である)
逆境は人を強くする
4代続く村長の家に裕福に育った母も、この2年余りの地獄で逞しくなった。逆境は人を強くする典型でしょうか。
その後、子供達が育ち、再びゆっくりした時間を迎えた。
70歳を超えて、人並みに高血圧となり、190にもなった。医者の家庭で、医療に携わった母は、独特の言い方をした。「医者を信じなければ、医者だって真剣に治そうとしないよ」
本人は、高血圧の薬を有り難く頂くと、飲みもせず、病院のゴミ箱に捨てて帰った。
「薬を飲めば、必ず高血圧になる(?…立派な高血圧じゃないの)
薬は症状を抑えるが、症状の原因を治しはしない。症状はまさに病気となった結果である」
80歳頃から耳が遠くなり、85歳を過ぎて、認知症が加わった。
まだらボケの状態で、「忘れられることは救いよ、苦しかったことなど忘れることで救われる」と認知症をも楽しんでいた。身の回りの姉は少し閉口していたが!
母の教え
子供に対してもあっけらかんとしていた。
怪我をすると、常備薬を取り出し、鮮やかな手付きで手当てした。
消毒液のオキシフル、赤チン、ヨウーチン、正露丸、メンタムで全て対応した。
(体の中に取り入れる薬はなかった)
風邪を引くと、外に出されて走り周りなさいと指示(命令?)され、確かにすぐに治った。
夏は、日に焼けることを奨励した。夏の日焼けは、ビタミンDを体内で作ることに必須で、しつこく夏でも冬でも外の遊びを奨励した。
シミができるなど論外であった。また、確かに風邪も引かなかった。ビタミンDは免疫力にも関わっているのだろう。
眠れない…起きていればいいじゃない。本当に眠くなると倒れるように寝るさ。
腹が痛い…正露丸で大丈夫。腹を空っぽにすればじき治る。
食べれない…食べなければ良い、一人分助かる。
水虫…クレゾールの希釈液に足を浸せば治る
まさに、簡単な教えであった。しかし、不思議と良くなった。
自給自足の中で
こうした環境で育てられた。特に食べ物でも思い出は多い。
戦後の復興の時期は何もかもが不足していた。自給自足が欠かせなかった。
貝掘り、魚釣り、仕掛けであゆや鰻をとった。
ワラビやキノコなど山菜狩りは日常であり、年中行事となった。
ヤギや牛を飼い、鶏を放し飼いし、野菜類を植え、椎茸を栽培した。
どの家でも当たり前の日常であった。
虫の食ったキャベツを嫌がると虫が食べても安全だからと寧ろ勧めた。
農薬のパラチオンの水田では、ゲンゴロウやオタマジャクシも死んでいる。そんな米を食べるの?
農薬の怖さを知っている。
果物屋の親父が、リンゴをエプロンで拭いてガブと齧った。そしてヘタのところの農薬を口にした為、あっけなく死んだ。農薬の怖さは忘れられない。
季節、旬、地産が生活であった。冷蔵庫がないから、保存できない。足がないから、地場の物だけ。まさに、地産地消であり、季節の旬を味わった。今考えれば、理想的な食事となる。
動物を見なさい
晩年、その母が孫を見に奈良の家に来た。
歳も歳だし、ぽっくり寺の吉田寺を案内しようかと誘った。
80歳のお小言が始まった。
「動物を見なさい、死ぬ時苦しんでいる? 死を受け入れて、安らかに息を引き取る。これが動物の姿、人も同じ。苦しむのは傷や薬を飲んでいる時よ。私は何もしないから、ぽっくりだね」
ご本人の言葉通り、体調が悪いと入院し、1週間で苦しむこともなく死んだ。
90歳で、枯れて逝った。
自分の体で起きた病は自分の体で治す
この親の影響で育った私は、「自分の体で起きた病は自分の体で治す」自然療法(!)を実践した。食べない、風呂に浸かって体を温める、よく寝ることが…自然療法であった。
(1)MOAの岡田茂吉師は、「食べたい時に、食べたいものを食べたいだけ食べる」と推奨され、体が求める食事を説いた。体が必要とするものは甘い。腹八分などより実践的だ。
(2)整体師の西田晴哉師には「風邪の効能」を教えられた。
風邪は万病の元と警戒されるが…風邪を引いて、免疫が活性化して「他の病気」さえ治ることに、感動した。(マラリアに罹ったがん患者の治癒、結核菌を使った丸山ワクチンなど応用例もある)
風邪を引くことを嫌がることはなくなった。
病気はなりもするが治りもすることが骨の髄まで染み込んだ。
80歳の先輩から、「6歳下か、俺もその歳であったら、6年間もあれば、やりたいことができる」と羨ましがれた。そう、「今の私が残された人生で一番若い」と実感して送り火をした。
安永大三郎
株式会社シルクバイオ研究所社長
一般社団法人老人病研究会団体会員